そんなことを言われましても
アドバイザー的な外部の方から、「アドバイス」を頂く機会があった。
「もっとこうした方がいい」「こういうことが必要とされている」と、その人は言う。
……あのね、とてもじゃないけどそんなことを言ってるような状況じゃないんですよ……
ということを説明するのにかなり苦労したし、多分わかってもらえてないと思う。
例えると、100mを14秒で走る生徒がいるとする。
アドバイザーは14秒だけを見て、あれやれこれやれ、そうして12秒で走るべきだと言う。
実はその生徒は16秒かかっていたが、血の滲むような努力をし、教員も土日を返上して練習に付き合って、それでようやく14秒でなんとか達成し、心身ともに疲れきってもう走れない生徒なのだ。
外部の方はそこの経緯は知らないし、見ようともしない。
なので言う。
「12秒で走れないのは君の頑張りが足りないからだ」と。
「まだまだ練習が足りない。もっと走れ!」と。
その生徒が生まれつき持病があり、14秒で走ることも奇跡的だということも知らないままに。
まあ、ちょっと盛っちゃったけど外部の方はアラがよく見えるからなのか、「ご指摘」をされることが多いような気がする。
もちろん、こちらも改善すべく頑張る必要があるんだけど、こちらの状況をまったく理解していない状態であーだこーだ言われても、どうも……ね。
こちらの状況を理解しようとしてくれる人、実際に理解できる人、一緒に考えてくれる人、そんな「外部の方」をお待ちしております。
こういう、「現状を理解していないけど口ばかり挟む人」がいたりするので、とてもじゃないけどやってられんから、学校が閉鎖的になる面もあるんだろうなーと思った。
季節の病
いつの間にか咲いた桜も散り初め、年度が変わって新年度。
「教育は書類でやっているんじゃない!、現場でやっているんだ病」がそろそろ再発しそうです。
罹患者数の多さ、治療の困難さ、特効薬の少なさなど、実に厄介な病です。
いつからか、教員になってすぐくらいからだと思いますが、未だに免疫が出来ていないようで毎年罹患しております。
4月の頭から書類作成マシーンと化し右から左へと書類を作成する日々ですが、もうそろそろ飽きてきたなー。
毎年再発しておりますが、今年は軽傷ですむことを心底願っております。
他人事じゃない
最近、いろんな学校で発達障害の生徒対応に苦慮している。
本校も例外ではなく、なかなかに苦労している。
が、先日のこと。
母と父の話をしていて、母は言った。
「あの人はアスペルガーやと思うよ」
……
……
……
そうかも。
私の父は「困った人」で、自分の意にそぐわないことがあると家で暴れる、「こうあるべきだ」という思い込みが激しい、暴れた後は何事もなかったかのようにけろっとしている、空気が読めない、他人の気持ちが理解できない……などなど今思えば確かにアスペの特徴がある。
学歴もまああるし、一応定年まで仕事ができていたし、常同行動などはないので、自閉度合いは低いと思われる。
が、言語的知能は比較的高め、作業性知能も低くない、というところに来て共感能力が超絶に低い。
点数にするなら、言語的知能100、作業性知能100、共感能力5、くらいだ。
確か能力の差が大きいことが知能検査の見方だったはずなので、これは該当するだろうなーと。
人の気持ちが理解できないことに関して何度か指摘したことがあった。
当時は「指摘したら誤魔化して逃げられた」と思っていたど、あれは本当に言っている意味がわかってなかったのだろう。
色盲で赤色が見えない人に「信号は赤で渡るんだ!」と言っても伝わらないように、全く伝わっていなかったのだろう。
ていうか、大分前に私も「父はアスペでは?」と疑ったことがあったんだけど。
「発達障害」って全然他人事じゃなかった!
「身内事」でしたw
当事者的な視点から思うこと。
それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるのだろうけど、父が定型の人だったら私はもうちょい上手く人間関係を学べたのだろうと思う。
私自身は家庭で人間関係の築き方がまともに身に付かなかったので、大学生くらいから非常に苦労した。
「なんで人とは違うのだろう?」と思っていたけど、アスペな父に育てられて人間関係を上手く学べてこなかったのだろうと、今になって思う。
当時の私は共感的コミュニケーションが超絶に下手だった。
「なんでみんな当たり前のようにコミュニケーションとれるんだろう」と思ったし。
もう、マジで勘弁してくれ。
……というのが当事者の意見かな。
親がアスペということは、共感的能力を育てる環境に乏しい家庭となりやすいのだろうな。
ある意味で私自身は家庭的なハンデを背負っての人生スタートだったんだなあ。
ただ、今となってアスペの生徒対応があまり苦じゃないのは、アスペな父の相手をしてきたからこそなんだろうけど。
あんまりいうと問題になりそうだけど、子供の立場からしたらアスペの親はマジで勘弁してほしいなー。
ちょっとずれるけど、ひょっとしたら「親が発達障害」な不登校の生徒って結構いるんじゃないかと思った。
うちみたいな「父が暴れる系アスペ」だと母も消耗していて、とてもじゃないけど子供が安心して過ごせる環境なんかではないし、定型の人との人間関係を学ぶ機会も少なくなってますからね。
組織の中で生きていくということ
クレーマーおじさんをはじめ、その他の方々も含めて今の職場は人間関係で精神を削られることが多い。
「残念な職場」と言ってしまえば終わりだけど、そうでもない気がしてきた。
「組織の中で生きていくということ」は、「様々な人がいるなかで生きていくということ」なので、いろんな人がいて当たり前。
真面目な人、怒りっぽい人、誠実な人、すぐ逃げる人、コミュニケーションのとれない人、嫌みっぽい人、やる気のある人、やる気のない人、発達障害の人、定型の人……
と、考えると人間関係で軋轢が生まれるのは当然で、組織の中で生きていくということは「人間関係で消耗しながら生きていく」ということかもしれない。
もちろんマイナスばかりではないので、支えあいや助け合いもある。
プラスばかりではなくマイナスもあって、それが組織という枠に縛られるということで給料を貰っているのかもしれないと思った。
自分でリスクを背負っている自営業なら人間関係を選んでもいいのだけど、リスクを組織に背負って貰っている人間には組織内の人間関係を選ぶ権利はないんだろうな。
などと思ったけど、さらに考えていると「人間社会で生きていくということ」自体が人間関係による消耗を含んでいるのだなぁ(もちろん良いことも含んでいますが)。
あぁ、裟婆で生きるって苦しいなぁ。
二年の長さ
今、校内でいろいろと異を唱える教員も多くいることに関して、会議の場で私がちらっと言及。
校長の痛いところをやんわりとつついてみた。
すると校長は言った。
「まあその件は来年度しっかりやってもらって……」
はいきたー。これは三月末に向かって逃げ切りモードだな。
普段の言動からはあまり逃げるようなことはなく、誠実に対応される「いい校長」だったので、これは異動の辞令フラグだ(笑)
下っ端的には「残されたこっちの身にもなってみろ! 2、3年で放り出すんじゃない!」とか思ったりもする。
けど、2年ってむしろ長いかもしれないと思うようになった。
今年に入ってからでも考えるだけでいろいろと事件もあったし。
学校に殴り込みをかけに来たような保護者と何回か面談をし「訴えるぞ!」的なことを言われ、教員が不祥事(?)をおこしてばたばたしたり、職員会の際にはクレーマーおじさんに噛みつかれ、働いている教員だって「優等生」ばかりではないし、訳のわからん内輪揉めの仲裁をし、教育委員会やら文科省から現場を無視したようなことを言われ、それによって現場との板挟みとなり……
と考えていると、こんなん2年もやるなんてほんと嫌になるよね。
逃げ切りモードの校長になんだか共感できてしまった。
2年や3年では何もできないようなもんだと言う人もいたけど、そんなんじゃなくて「2年か3年が精一杯」なのかもしれない。
それ以上続かないから、管理職は2年か3年でだいたい転勤するのかもしれない。