TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

成功例

インターネット記事から。

某県立高校の話。

以前は日本トップの大学に何人も進学していたが、近年落ち目でトップの大学には一人くらいになってきていた。

そこで、進路指導の先生が学習習慣を徹底させて、再びトップの大学に20人近く合格者が出るようになったそうな。

私学の独壇場に割りいって公立の復活的な記事だった。

そこの若手~中堅クラスの先生の働きっぷりが、「成功例」的な感じで紹介されていた。

その男性教員は子供も小さく、夕方に帰宅してから子供を風呂に入れる「イクメン」だそうな。
で、9時に子供と寝てなんと1時半に起きる生活だそう。
本人いわく「キツいけど生徒も頑張ってやっているので頑張れる」らしい。



3つ言いたい。

ひとつめ。

ほんと、潰れないことを祈ります。

今は結果も出てイケイケで前向きに取り組めていいかもしれんけど、結果が落ちてきて……となったときに、遣り甲斐なんて簡単に一気に無くなる。
そんな、遣り甲斐のない状況であの働きは出来んだろうなと。
遣り甲斐のない状態であれは潰れるよな……と思った。



ふたつめ。

それって成功例なのか⁉ ということ。

確かに結果が出ている。
数字として間違いなく成功している学校である。

が、しかしあんな「できる人」はそうそうおるまい。
で、どうなるかというと公立なので転勤がある。
その際に後から来た人が「前の人はやっていたから」とあの仕事量をあてがわれる可能性が高い。
後から来た人潰れるよね。
まぁ、どれだけ効率よくやっているか、自主的な仕事をどれくらいやっているか、そんな辺りはわかりませんが……

私自身も「前の人は22時まで残ってやっていたから」と言われて、無理して体調を崩したことがある。
そんな事もあったので、異動のある公立学校で「一個人の超絶的な働きによって成り立っている状態」は「たまたま」上手くいっているだけで、後の人の事を考えると「成功例なのか⁉」と思ってしまう。

学校経営としては危険な気がする。
もちろん、「できる人」はありがたいが「その人がいないと回らない状態」は危険すぎる。
ていうか、後の人じゃなくて、本人がつぶれそうな気がしてたまらない。
学校の規模にもよるけど、一人が抜けると穴埋めはなかなか大変だぞー。

ま、我々は単なる駒なので学校として結果が出ればそれで成功で、駒なんていくらでも補充が効くのでガシガシ使っていきましょう‼ みたいな方針のような気もしますが。

あれを美談のように扱われると、どうも違和感あるなぁ。

さすがにあれを求められることはないとは思うけど、「ごく一部の非常にできる人たち」って一緒に働くには非常にありがたいが、仕事を引き継ぐ立場としては困りもんだなぁ。

ただ、日本トップの大学に何人も進学するような状態になるにはああいう人が必要なんだろう。




最後に、あなた部活は⁉

金八先生状態ですがな。

非常に泥臭く、気苦労も多い部活。

それをやらずに「イクメンでキラキラ頑張ってます」みたいなとこだけ見せられると、どうもねぇ。

訳もわからん部活にあてがわれて、苦しみながらやっているこっちの苦労は分からんだろうな……

と、僻んだ見方をしてしまう。

私はなんて心の狭い人間なんだ。



みたいな、私とは縁のない世界っぽいですがいろいろと考えさせられてしまった。

あれを美談的に扱うのはいいけど、強制し出したら某居酒屋チェーンになるんだろうね。

これ以上ブラックに職場になっていくのは勘弁してくれー。

困った人の扱い……

某ブログでの記事。

昔は「困った人」として社会生活を送っていた人が、最近は「発達障害」として、精神科の扉を叩くそうだ。

その方はそれだけ社会適応のハードルが上がったと書いていた。

社会の側も受け入れるキャパシティがなくなってきたと。



そんなことを本日凄く感じた。

職場にいる「困ったオジサン」との話。

こちらが協力をお願いしたのだが、なかなか話が進まない。

さらにこちらを馬鹿にしたような態度をとられるので、非常に疲れた。

で、他の人に愚痴を聞いてもらったりしたのだが、「あれは困った人だからね」と言う。

なぜこちらが協力をお願いしたかは、仕事だからだ。
関わりたくないけど、仕事として必要だと思ったのでお願いした。

が、オジサンに合理的な思考回路はないので、個人的感情でいろいろと言ってきた。

そして、ふと考えてみると今の職場は残念な職場なんだけど、「困った人」が多い。

特に五十代後半のおじさんはほぼ全ての人がコミュニケーションのとりにくい、癖のある人だ。

なぜかその下の世代になるとマトモな人ばかりになる。

私の世代もマトモな人が多い。

というか、私の世代は仕事に対して、「個人的感情を押し出すものではない」という認識のように思う。

これってある意味で昔は「少々変わっていてもそのままいけた」という事のように思った。

だから変わらない、変われない人間になってしまったんだと思うけど、今の世代は仕事で必要ならストレスを抱えてでも無理してでもやるような気がする。

電通にしかり。

素の状態ではなく、周囲の要請に合わせて無理してでもやっていると、我を通している人に対して寛容になれない。

私なんかは心が狭いので、仕事に私情を持ち込むなよ!と思ってしまう。

そういった形の不寛容が社会全体としてあるような気がした。

そして、「あの人はちょっと……」と言われながらも社会で生きていた人々が、「発達障害」というラベルを貼られて生きざるを得ない状況にもなっていると思う。

回りと違う人は、違いながら受け入れられていたのは昔の話で、違う人はどうにかしていきましょうという感じがする。

教員としては昔よりかは遥かにレベルアップしているんだと思うが、働く側からしたら遥かに働きにくくなっているんだろうなと思う。



ま、なんか話がおっきく飛躍しちゃった気がするけど、合理的な思考ではなく私情で動く困ったオジサン達の相手ってどうすりゃいいんだろう?

あーあ、ほんと勘弁してほしいなー。

マネージャーとプレイヤー

校内で任されている仕事があって、そのことについて。

今年初めてなので、回すだけで精一杯だったが、余裕ができてきたのか、ふと考えた。

当たり前なんですが、マネージャーとプレイヤーは違うということ。

プレイヤーとして、技術を磨きレベルアップをしていくのは当然だけど、それはマネージャーのやることのメインではない。

もちろん、学校現場はプレイングマネージャーとなるので、マネージャー的な思考回路があまり無かったように思えてきた。

自身がプレイヤーとして身につけた技術の伝達や、他の人のスキルの共有化など、個人として成果を求めるんじゃなしに、組織として出力の最適化を図る事が書けていたように感じた。

ハッキリ言って、プレイヤーとして「校内で一番できるとこ」は確実にある。
が、自分一人がすごく出来ていても学校全体としては出力はそんなにないんだなー。


マネージャー業をもうちょい勉強しま、す。
松下幸之助の本でも読んでみよっかなー。

何をやっているのか

正直なところ、自分が何をやっているのか分からなくなった。



どういうことかというと……

いろいろと問題を抱えている生徒がいて、私はその生徒の問題が小さくなるようにと、体をはってその生徒と関わってやっていた。

やらねばならないという、使命感と言うと大袈裟だけど、そんな風に思って頑張ってやっていた。

が、そんなことにたいして「ま、あんなもんやろ」と言われてしまった。

こちらは問題意識を強くもってやっているので、「えっ!? 放置ですか!?」って感じでした。

正直なところ、私が頑張ってやってきたことの成果と思えるようなこともある。

というか、「こうやってやってきたお陰で今があるんですよ‼」くらいに言いたいですが。

が、はたして私がやっていなかったらその成果がないのかと言われると、分からない。

そして、その生徒に関わっているのは私だけでない。



なんというか、「自分だけが頑張っている感」が大きくなってきていた。

自分だけが頑張ってて、他の人はダメ!みたいな。

そうなっちゃうと他の人のいいとこも生かせないので、頑張るのはやーめたっと。

自分が頑張っていなければ、自分だけが頑張っている感は減るだろう。




専門家に聞くと私のやっていることて良さそうである。

が、他の教員全員が私と同じ様にその生徒と関われるかと言うと、そんなことにあり得ない。

良くも、悪くも。

私が100%正しい訳じゃないし、はっきり言って非常に対応が難しい生徒なので、「それができるのは先生しかいない」とも言われた。





いろんな人がいて、その結果本校が成り立っているので、まぁこんなもんなんだろう。

私一人が問題意識を持ってやっていても、大して変わらんのだろうなー。

そして、私自身も周囲に影響を与えるほどの力はないんだなー。

あまりレベルが高いとは言えないですが、これが本校のレベルなんだろうな。

事件は現場で起きてるんだ‼

てなわけで、現場からです。

同僚のやったことが結構まずいです。

そこだけ切り取ったらインターネットのニュースに流れてもおかしくないような言動。



労働災害の件数について、ハインリッヒの法則というものがある。

1件の重大事故の陰には30件の軽微な事故があり、軽微な事故の陰には300件の軽微な異常がある……というもの。



もちろん、教員は人間なのでミスもあるし、後になってまずかったなーと思うことも多々ある。

……が、人災というか、最低でもあれは軽微な事故レベルな気がします。

30回くらいあれが続けばそのうち地雷が爆発してる気がする。

みたいな感じですが、保護者にどこまで伝わって、保護者がどこまで訴えて、管理職がどこまで揉み消せるか……

どうなるか、ある意味で見ものです。

まぁ、「どれぐらいまずいことなのか?」の認識は人によって違うので、あくまで「私」がかなりまずいと思っていることなんですが、同様に感じている人もいるようです。

法律は犯してないし、支持する人もいるようなので、私の思い込みだけで済むといいんですが。

魔法の言葉

落ち込んだ生徒が元気を取り戻し、勇気付けられる。

そんな、先生からの魔法の言葉……




そんな魔法を使えたらいいなあと思う今日この頃。

ですが、別な意味で魔法の言葉を見つけてしまいました。

その言葉は「去年と一緒で」です。

大体学校でやってることは毎年同じなので、何かの係りが当てられた場合に使える魔法の言葉。

大体の人は去年やったことなんて覚えてないので、「ああ、そうか」と流してくれる。

一方で変えるとなると、資料をつくって、根回しして、会議で提案して、クレーマーおじさんの相手して……と、相当に手間がかかる。



「去年と一緒で」。

ああ、なんて素晴らしい言葉なんでしょう!

税金は払いましょう

どうも会議が早く終わらない。

というか、この1年以上勤務時間内に終わったことがない。

なぜかというと、「クレーマーおじさん」がいるのだ。

その人は、会議の際には「何かあったら黙っていないからな」というスタンスで、何かを言うことを前提として会議に臨んでいる。

「発言することが目的」の発言というか、自己顕示欲わ満足させるための発言っぽい。

例えば、球技大会の話なんかだと、

おじさん(以下お)「この、教員が審判やるってどんな形なの?」

担当の人(以下担)「試合時間にコートにいて、ジャッジしてもらう予定です」

お「審判やらせるってことは、ちゃんとルールは事前に教員に伝えるんだよね⁉」

担「要項でしっかり示したいと思います」

お「そんな適当でいいんか! 教員にやらせるんならもっと時間も取って説明すべきでしょ!」

担「では、この競技とこの競技のルール説明の文書もつけます」
 →仕事が増える。

お「おう、そんならそれでやって」

お「ていうか、そもそも球技大会の審判を教員がやるってどうなの!?」

担「もちろん、生徒が運営できたらいいのですが、今年はこれでいこうと決まりましたので」

お「そんなんでええんか!? そもそも球技大会は生徒のために活動の時間でしょ!? それを教員がやるっておかしいでしょ!!」

→この辺で担当では処理できなくなり、校長が出て来る

校長「言われることはごもっともですが、どうにかやろうとして今の形に落ち着いたので、そこの理解を頂ければと思います」

お「あ、そう。ほんならしゃあないか」


……みたいな。

質問→回答をつつく→さらに回答をつつく……→校長が出てきて。ようやく収集

という流れ。

途中のつついている辺りは、何がしたいかが全く謎のあげ足取り的な脊髄反射の会話。

なので、建設的な意見のやりとりはほとんどない。

回答も理解しようと聞いてないし、資料も大して目を通していない。

で、最後に校長を引っ張り出して満足……みたいな。

先日の会議ではおじさんのターンが30分弱あったかなぁ。

今度、ストップウォッチで測ってみようw



そんな残念な会議をやっていながら気付いたことがあります。

実はそんなクレーマーおじさんですが、本校には1名ではなくもう1名いるんですが、その二人目に関して。

最近、静かなのだ。

特に、例で出したおじさんが元気に喋っているときは発言しないのだ。

会議の際にクレーマーは1名という、暗黙の法則が成り立っていそうです。

二人ともやっちゃうと二人がぶつかるから、本能的に回避しているような気がします。



で、ここからが本題。

「会議にクレーマー1名の法則」に従うと、今うるさいおじさんが静かになると、もう一人のおじさんが元気になる。

ましてやおじさん二人ともいなくなっても、どこからかクレーマーさんは生まれてくるのでしょう。

なので、「クレーマー保存の法則」がおそらく成立しており、会議の際にクレーマーがいないことはない。

……と考えると、クレーマーさんの対応に費やされるエネルギーや、時間は税金のようなもんだ。

学校を運営していく上での税金ですな。

税金はしゃあないから払いましょう。