TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

面子とマウンティングとナワバリ意識

某blogで結果が数字ででない仕事をやっている世界では、面子争いや主導権争いを職場でやりだす……みたいなことがあって、うちの職場にもそんなことやってる人いるなーと思ってましたが、本日直撃を喰らいました。

場は少人数でのミーティング。

そこに面子とか「こうあるべき」とよく言うオジサンがいたのだが……

私の説明が言葉足らずで、結論だけを言ったのも悪かったけど、私主張がオジサンの主張と違っていた。

すると、私の方に向き直ってオジサンは私にたいしてキレてた。

「そんなんはありえないだろ!」と、キレることで自分の主張を通そうとしてきました。

マウンとをとりにきました。
押さえつけてやろうと。
俺のナワバリに口出しすんじゃねぇって感じでした。
自分の意見通りにいかないと、自分の面子が潰されたように感じていそうでした。

もう、そうなっちゃうとその時点で会話は終わりでしょ。

かなーりストレスなんですけど。

生徒のためにどうすればよりよくなるのか、知恵を出しあう場じゃなくなりますよね。

違う意見をすりあわせて、解決策を見いだしていかないといけないんじゃないの!?

こっちだって自分の意見が絶対とは思ってないし。

ミーティングの初めから、オジサンは主導権をとるためなのかずーっと喋っていて、「こいつ、そんなに主導権欲しいのか……」なんて思ってたのが伝わったかな?

でも、これからどうする?という話になったとき、オジサンの主張は現実的に穴だらけだったので、主調しちゃった。

あそこで空気読んで黙っとけば良かったかなあ。

でもやっぱオジサンを自己満足させるためでなくて、生徒のために仕事してるんだから……とか思っちゃうので言ってしまうなぁ。



あぁ、めんどくさいなー。

私は面子やらなんやらは比較的気にせず、「成果」て仕事を考えている部分がある。
が、その面子を軽視するスタンスというか、私が自分の意見を言っちゃうが彼らの気にくわないので、攻撃対象となっちゃうんだろうなー。

ああいう人がいると、めんどくさくなるので誰も意見を言わなくなる。
それが彼らの思うつぼなんですが、嫌な思いをさせられてまで意見を言おうとは思わないなー。
しかも一人じゃないんだよね、ああいう人。
ほんと残念な職場だ。

あんな経験をしたから、自分の意見を言わないとか言っている私も自分の保身を考えているしょーもないやつですな。



同僚に「えぇー、そうですかー!?」とか言って、直撃を回避するのが凄く上手い人がいるが、やっぱ凄いなあ。

まだまだ私は「教員世界の渡り方」が下手だ。

ヨイショしとけば直撃されずに済むかと思って、4月にあのオジサンを何度かヨイショしといたんですが、そんなん関係なさそうでした。

自分の意見を言って、なおかつ直撃を避けるためにはもっともっとへりくだって注意深くやらんといかんのだなあ。

くっそー、甘かった。



この「面子」という概念ですが、実は生徒対応に大事な概念っぽいです。

生徒に好かれる先生のタイプは、「自分の面子にこだわらない」「生徒の面子を立てる」のような気がします。

ていうか、自分の面子にこだわらず人の面子を立てる人は好かれやすい気がする。

それが直撃を避ける技術なのかも。

学校ってなんぼのものか?

学校にはいろいろな生徒がいる。

エンジョイしている生徒、リーダーの生徒、異性にもてる生徒、勉強が得意な生徒……

しかし、それだけじゃない。

学校がキツくて苦しい生徒、いじめにあっている生徒、勉強が苦手な生徒……

そんな生徒に言いたい。

「学校って大したもんじゃないよ」と。

まだ、数年か十数年しか生きてなくて、君は狭い世界しか知らないんだ。

学校の他にいけばもっと楽しく、君が生き生きできる世界があるかもしれない。

ホントに学校なんて広い世界のちっぽけな1部分でしかない。

だから、今上手くいかなくても、この先上手くいかないということが決まったわけではない。

もちろん、人生何があるかわからないので、上手く行くという保証はない。

けれど、「この先も上手くいかないはずだ」と決めつけるのはしないで欲しい。



と、発達障害で日々きつい思いをしている生徒と接していて思った。

ある人に言わせると「学校は最後の共産主義社会」だと。

みんなと違う生徒はすぐに弾かれ、居場所なんてなくなる。

実力主義でない日本の社会も関係していそうですが、そんな学校に不適応な生徒が安心して通える学校にしたいなーと、思っている先生も一応ここにいるんだぞー。

どこまでが「学校」の仕事ですか?

校内でいじめがあったことが判明し、偉い人が謝罪する姿がTVで流れていた。

なんか、謝罪したら責任あるって感じが一気に高まるな。


そんな姿を見ながら思ったのは、「いじめがあったことの責任」って学校にあるの!?

ということ。

そんなこと言われても無理だぞ。

もちろん、あってほしくないし、見つけたら止めに入る。

けど、そんなん全部コントロール出来るわけないでしょ。

学校の関係するところで起こった問題は学校や教員の責任……みたいな、問題のすり替えと責任の押し付けがあっているような気もする。




以前、中学校に見学に行かせていただいたことがある。

その学校は「いじめをなくす」ことを全校の取り組みとしてやっているようだった。

が、非常に違和感を感じた。

戦時中の「戦争に反対するやつは非国民」的な、「いじめをする生徒は非国民」みたいな、全体主義的な空気を先生方が頑張って作っているようだった。

不登校の生徒の25%くらいは教員が原因らしいが、あんな空気なら学校に行きたくない生徒もいっぱいいるだろうなーと思った。

もちろん「本校はいじめ撲滅に取り組んでおり、いじめ0です!!」みたいな優秀な学校です。

「教員の指導力」が「生徒をどれだけ言うことに従わせるか?」みたいな、そんな空気も感じた。

そんな中で先生がいじめをなくそうと頑張れば頑張るほど、不登校の生徒が増える……みたいな。

ま、いじめで大問題になるなら不登校の生徒が数人増えた方が問題にならないですから。

しかも、不登校って因果関係がはっきりしない場合も多いし、家庭環境やら本人の特性やら学校ではどうしようもないことが原因らしい場合も多いので、まだどうにかできる(と勘違いできる?)いじめの方に力を注ぎますよね。

ていうか、不登校の生徒が数人出るくらいしないといじめも減らせないでしょうし。

私立はクビにできるんでしょうけど、公立は基本的にいじめる人間だろうが、不良だろうが、悪魔だろうが受け入れないといかんですからね。



それと、「どこまで学校が関わるのか!?」っていうことも考えさせられた。

「生徒のため」という大義名分でなんだか無限にやらされている気がする。

校内でいじめがあったら対応するのは仕事だと思うけど、では校外で校内の生徒同士でのいじめなら?

校外で生徒と生徒じゃない人のトラブルは?

生徒のすることならプライベートどこまでも入っていくの?

とか。

まあ、慣習的に学校が関わっていたので続いているだけかもしれませんが。

今みたいな何でもかんでも的な関わりかたなら、もっと教員の人数を増やして負担を軽くしほしい。

ま、個人的には小さな政府ならぬ「小さな教員」となって欲しい。
もっと分業化して教員ではなく、スクールポリス、スクールカウンセラー、スクールドクター、スクールスポーツコーチ……という人をどんどん学校に入れてほしい。
現状は何でもかんでも教員がやっているけど、はっきりいって教員だって人間ですから、何でもかんでも出来るわけない。
学校に行きたくない生徒を作っているのも教員ですから。

授業をする能力で採用しているんだから、もっと授業をすることに力を注がせないと結構な損失だと思う。

ていうか、もっと授業の準備する時間欲しいw





というわけで、何でもかんでも先生の責任とされている現状を緩和するには、単純に人手を増やすか、専門家を増やすか(雇うか)が解決策だと思う。

どっちにしろ、人を増やすので金がいる。

教育は金だー。

金がすべてだー。




なんという元も子もない結論なんだ。

専門家

最近、いろいろな「専門家」の方と一緒に仕事をする機会が増えた。

我々教員はその道の専門家ではない。

なので専門家と協力することが必要となる。



……なんですが、一口に専門家と言っても、いろいろな専門家がいて、いろいろな立場だったりする。

「我々は学校の中の事を知らないので、学校の事を理解することが大事」

と言ってくれる人もいるが、

「教員は全然解っていない。やっていることがおかしい」

と言い、教員や学校に対する否定的な感じがビシビシ伝わってくる人もいる。

言い方も、かなーり上から目線。

そんな態度で面と向かって言われたときはさすがにカチンときました。




その個人の性格も関係していそうですが、なかなか難しい。

「教員は専門家の力をもっと借りるべきだ」

みたいなことを言う人がいますが、

「それは専門家に言ってくれ」

と言いたくなった。

生徒のためを思って協力するんでしょ!?

あんた何しにここに来たの!?

教員の判断がおかしいと思うかもしれんけど、こっちだって一生懸命考えてます。

否定するんじゃなくて、協力しましょうや。



人と人が協力するってそんなに難しいことなのか!?

閉鎖的な理由

近年、「開かれた学校」みたいなことが結構言われるけど、自分自身が閉鎖的だなーと思うことがあった。

それは私が一応の責任者としてやっている仕事なんですが、教員じゃない人にお手伝い(?)してもらっている。

そのお手伝いをしてもらっている人との話。

正直、私はその人が信用できません。

言葉の端々にひっかかる何かがある。

それがなんなのかは言語化できてませんが。

で、その人に生徒の事を任せてしまってもいいかもしれないけど、問題が起こったときに尻拭いするのは私。

頼むから、役に立たなくていいから、こっちの仕事をふやさないでおくれ。

……という意識が先行してあまり仕事を任せたくない。

そのお方にやりたい放題やっていただいても、いいかもしれません。

上手くいかなかったとき、その人は仕事をやめるかもしれない。

けど、こっちは辞めれんのだよ。

あなたが起こした問題の後片付けをやらにゃならんのですよ。


みたいなことを考えていると、「たいしてなにもしてもらわない」が正解のように思う。


何かをしようと挑戦的するのではない。

失敗の後始末を減らそうという、消極的スタンス。

超保守的。


あー、どうすりゃ生徒にプラスになるのか?

お天道様

この週末、いろいろと失敗した。

お陰で詫びの電話をしたり、生徒の信用を失った(かもしれない)りと、今日は忙しかった。

先日にふざけた記事を書きすぎた罰があたったものだと思われます。

調子に乗るとちゃんと痛い目をみる様になっている気がする。

お天道様は見ているんだなぁ。

部活は苦しい

先日は部活が楽しい理由を考えてみた。

しかし、楽しいことのみを考えるのは片手落ちである。

そこで部活が苦しい理由を考えてみた。



まずはなんと言っても、給料が発生しないことだろう。

ボランティアですから。

ていうか、教員は残業代という概念ないですから。

責任だけ負わされて、問題は起きるわ、休みはなくなるわ、クレームは来るわ、苦しい理由しか見当たらない。

付け加えると、生徒は成長するのに自分は成長しない現実と向き合わなければならない、指導力のなさを痛感させられる、生徒と一緒に爽やかな汗をかいてしまう、などもある。

これを楽しいという人間はよっぽど幸せな人間か、よっぽど不幸な人間か、よっぽど部活が楽しい人間か、人間ではないかのどれかだろう。




次に、生徒の悩み、苦しむ姿をみることである。

苦しみなくして、成長なし。

部活では成長のための苦しみを生徒とともにするのである。

時にあまりにも苦しくて、その気持ちを生徒にぶつけてしまう。断っておくが、あくまでもこれは「指導の一環」であり、決して八つ当たりではない。むしゃくしゃしてしまっただけである。もちろん、その後は後悔の念に苛まれる。もちろん、その後は後悔によりむしゃくしゃしてくるので、生徒に八つ当たりして……と、無限ループである。




そして、保護者のことも忘れてはならない。

日々の部活動指導に不満を持っている保護者も多い。

顧問のやる気がない、顧問がやる気ありすぎてついていけない、顧問の指導力がない、顧問の指導力がありすぎて逆らえない、我が子が顧問にいじめられている、我が子が顧問をいじめている、などなどあげればきりがない。

こちらとしては保護者と会うときは平身低頭、へこへこしているが、身長が190センチメートルもある保護者には決して上から目線で接したことはない。

また、私が生徒の役に立っていると勘違いしている方がいたりする。そんな方は「ほんといつもお世話になっています」などと言われる。そういうときは「いえいえ、お役にたてなくてすみません」と言っているのだが、「そんなことないですよ」などと言われたりする。謙遜していると思われることが多いが、理解していただけないこの状況は苦しいものである。本当に役に立っていないことが理解されると、さらにに苦しいものである。



以上の理由により部活は苦しい。

あぁ、なんて苦しいんだ。