二年の長さ
今、校内でいろいろと異を唱える教員も多くいることに関して、会議の場で私がちらっと言及。
校長の痛いところをやんわりとつついてみた。
すると校長は言った。
「まあその件は来年度しっかりやってもらって……」
はいきたー。これは三月末に向かって逃げ切りモードだな。
普段の言動からはあまり逃げるようなことはなく、誠実に対応される「いい校長」だったので、これは異動の辞令フラグだ(笑)
下っ端的には「残されたこっちの身にもなってみろ! 2、3年で放り出すんじゃない!」とか思ったりもする。
けど、2年ってむしろ長いかもしれないと思うようになった。
今年に入ってからでも考えるだけでいろいろと事件もあったし。
学校に殴り込みをかけに来たような保護者と何回か面談をし「訴えるぞ!」的なことを言われ、教員が不祥事(?)をおこしてばたばたしたり、職員会の際にはクレーマーおじさんに噛みつかれ、働いている教員だって「優等生」ばかりではないし、訳のわからん内輪揉めの仲裁をし、教育委員会やら文科省から現場を無視したようなことを言われ、それによって現場との板挟みとなり……
と考えていると、こんなん2年もやるなんてほんと嫌になるよね。
逃げ切りモードの校長になんだか共感できてしまった。
2年や3年では何もできないようなもんだと言う人もいたけど、そんなんじゃなくて「2年か3年が精一杯」なのかもしれない。
それ以上続かないから、管理職は2年か3年でだいたい転勤するのかもしれない。
A君とH君
いろんな生徒はいますが、冬休み前の話。
部活の生徒が「もう、ほんと無理です」と大分余裕のない感じで訴えてきた。
その生徒は、おっちょこちょいでムードメーカー、思ったことをすぐに口から出ちゃうような、軽く他動症のタイプ(以下、H君)。
訴えてきたことは、「同じ部活のメンバーの言動にストレスが溜まりすぎている」だった。
そのメンバーとは、いわゆる空気が読めないタイプで、H君と他の人が喋っていたりすると横から口を挟む、とんちんかんな事を言う、などアスペルガー症と思われる生徒(以下、A君)。
H君はA君の言動に関して夏休み前くらいから我慢してきたものの、もう我慢できないという。
私もA君の言動にH君がいらっとしていることは知っていたけど、特になにも言わずにH君の我慢や成長に任せていた。
が、さすがにH君が直訴するくらいなので、よっぽどストレスが溜まっているので、間に入ることにした。
H君に対しては「そういう人もいるのだから距離をとって、イライラが減るようにしよう」と言っていたが、そんな話をしている最中にA君が横から「お前、それくらい我慢しろよー」とか言ってきた。
で、「そーゆーとこなんだよ!!」と、さらにH君の怒りのボルテージ上がる。
……しょうがない。
直接A君に説明するか……手間がかかるのでやりたくなかったが……
ということで、A君に一から説明。
H君と私が会話しているときに横から入ると、H君は不快な思いをしていること。
A君は不快な思いをしていなくとも、他の人が不快な思いをしている時があること。
これ以上簡単には説明できないというくらい渾身の力を振り絞って、噛み砕いて説明。
が、A君は言った。
「よくわからないです」。
……うん、そうだよね……。それは想定内。
てゆーか、言われてわかるくらいなら空気読めてるから。
やはりアスペルガータイプの人は「他人の感情」に疎いので、「他人がどう思っているか」を言ってもダメだよね……
で、ここで諦めると今度はH君が爆発しそうなので「えー、なんでだめなんですか?」、というA君相手に粘った。
「えー、よくわかんないです」というA君の言葉に「うん、そうだよね。そうなんだけど……」とほんとに粘った。
どうすれば伝わるか?
どうすればA君の行動が変わるか?
そんなことを考えながら3人で話をしながら、最終的には「H君と誰かが喋っているときは入らない(直接呼び掛けられた場合は入ってよい)」ということに落ち着いた。
は、いいんですが話のなかでA君に「自分の言動で他人を不快にさせている」という自覚をしてもらうために、「君の言動でH君は嫌な思いをしている」ということを何回か言った。
どれくらい伝わったか分からないが……
てな感じで寒い廊下で一時間話をし、部活動も冬休みに突入。
ほんと寒かった。
A君に冬休み中になんかあったら私はYahooニュースで報道され叩かれまくる、不祥事教員になるんだろうなーと、そんなことを思いながらの冬休みだった。
休みが明けて、無事にA君は学校に来ている。
やれやれ。まずは一安心。
「発達障害の生徒に配慮しましょう」と上から言われるが、現場では今回みたいな「どっちも発達障害」みたいな件も多い。
なかなか難しいなあ。
職員会議は忙しい
先日、職員会議でマウンティングを繰り返すクレーマーおじさんの事を書いたけど、前回の職員会議は興味深かった。
何があったかというと、クレーマーおじさんが劣勢にたたされていた。
おじさんがやらかしたのだ。
具体的にはここでは述べられないけど、前述の「事件」はおじさんがらみだ。
そんな状況のおじさんをを人々は見逃すわけがなかった。
おじさんの提案した議題が質問の集中砲火を浴び、見事に炎上。
提案の中身が穴だらけなのが火に油を注いでいたのだけど、普段は職員会議で質問なんかしないような方々も参戦しており、ワンサイドゲームだった。
普段は自分がマウンティングをして他人を攻撃していたから、弱味を見せたので仕返しされたのだ……
と、たまたまスクールカウンセラーの方と話す機会があり、その事を話すと面白い事を教えてもらえた。
「仕返しをされた」というのは私でもわかるけど、「何で仕返しをされるのか?」は今まで攻撃していたから。
では「なぜ他人を攻撃するのか?」というと、他人との人間関係を「こっちがやらないとやられる」という認識をしているから。
で、どうなるかというと今回みたいなことがあったら自分が攻撃されるので、ますます「攻撃しないと自分がやられる」という信念を強化していく。
「あぁ、やっぱりそうか」と。
これを繰り返し、攻撃し、攻撃される関係性は終わらない。むしろそんな信念を強化していくそうな。
なんだか残念な職場であるけど、いくら教員とはいえ、「ヒト」であり、闘争本能や防衛本能は押さえきれない。
誰が悪いわけでもない、人間ってこういうものだろうな。
まぁ、世の中こんな感じで回っているのだろう。
この争いを止めることができたのならば、世界平和が実現できそうな気がします。
個人的にはおじさんに攻撃されたこともあるし、攻撃されてしどろもどろになっているおじさんを興味深く観察しているのだけれども、他にも色々と興味深かった。
若い人でちょくちょくマウンティング的なことをしている人がいるけど、彼はこのチャンスを逃すことなくしっかりと仕留めていた。
仕事もできるし、彼は「決めるときには決める人間」のようでした。
もう一点面白かったのが、先代のクレーマーおじさんというか、最近は静かになった人がいるのだけれど、そのお方もついに今回は動きました。
最後のまとめで核心を突くように「ブスッ」と仕留めにかかった。
虎視眈々と狙っていたような質問だった。
ただ、クレーマーおじさんは核心の意味がわからず的外れな回答に終始していたので、「チクッ」とも届いてなかったようだけれど。
先代、不発!!
確実に仕留められると確信していたのか、先代は「この人言っても無駄だわ」と諦めず、仕留めにかかって同じことを繰り返しているのはなかなか滑稽だった。
先代、仕留めきれず!!
という攻防が会議室で月一で行われている本校。
アヒルが水面下で忙しなく足をばたつかせているように、本校も職員会議で大の大人がみっともないくらいにマウンティング合戦を行っているのだ。
ほんと職員会議は忙しい。
ほんと職員会議は楽しい。
大学無償化の目的
ふと、先日思い付きました。
大学無償化の目的。
「やる気のない学生に金を払うのは嫌だー」とか言っていましたが、そんなことではなさそうな気がしてきました。
某テレビ番組で「80まで現役社会」みたいなことをやっていましたが、そこではモデルケースとして「40~50あたりで一旦退職し新たなことを学んで働く」という北欧モデル?を説明していました。
それって、年金がなくなるってことですね。
なので、大学無償化は「若者の負担を減らす」とか「大学絡みの既得権層の保護」とかが目的ではなく、「年金なんてなくなるから、年取ってからもしっかり働いてね。セカンドキャリアのためには学費出すから!」ってことか。
と、考えるとありな気がします。
どうやって年金をなくすかは謎ですが、人も足りないことだし、新卒一括採用の慣例による歪みとか、人材の流動性の確保とか、同一労働同一賃金とか、その辺の問題も解決していきそうな気がします。
というか、結構現実的にセカンドキャリアを考えている(そういう社会になるとも思ってます)し、その際に学費がただになるのはいいかも。
そうなると、今みたいな入試では学生しかクリアできないので、アメリカ式の「入りやすく出にくい大学」にもなっていくのではなかろうか(ま、そうなってほしいという願望込みで)。
てゆーか、今の方式の入試を突破して自分が大学生になれるかどうか、なかなか厳しいっす。
勉強を教えているのに自分の学力が落ちているという、謎な現象。
うーむ、セカンドキャリアを考える前に受験対策を考えるべきなのか……
てなわけで、大学無償化に向けて私のなすべき事は受験勉強のようです。
事件は会議室で起こっているんじゃ(以下略)
はい。というわけで現場からです。
本校で「事件」が発生しました。
事件は現場で起こっているんだー!!
と、実感させられましたが、現場にいるからなのか問題の大きさがよくわかりません。
大きく発表されるのか、管理職が握り潰すのか、どういう対応をしていくのかよくわかりません。
さぁ、どうなることやら。
「自分」とは何か
先日、スクールカウンセラーの方と話をさせてもらう機会があって、いろいろと教えてもらった。
対応の難しい生徒の事を話しているうちに、不登校の生徒の家庭環境の話になった。
ある程度教員をしている人なら経験していると思うが、不登校の生徒はだいたい家庭環境が悪い。
父親から暴力を振るわれている、母子家庭で母親は家に帰らずネグレクト、両親が離婚し再婚相手の連れ子と生活しているが明らかに再婚相手に邪険に扱われている……などなど、言い出したらキリがない。
で、カウンセラーの方に教えてもらったのが「二重の剥奪」という概念だった。
どういうことかというと、まず家庭で嫌な思いをする、そして家庭で「他人との健全な関わりかた」を学べないために学校や会社で適切な人間関係を結べない……ということだった。
人間は白紙の状態で生まれてくるので、人間関係の結びかたも学んでいくことの1つだ。
そして、その人間関係を学ぶ一番最初の場所が家庭だ。
人は生まれてくる家庭を選べない。
本人の能力や、努力でどうにかなることではない。
虐待する親も自身が虐待されて育ち、「それしか知らないからそうするしかない」場合が多い。
私は仏教的世界観が好きなので、これって正に「縁起」というやつだと思った。
不条理であり、不公平だ。
幸せな家庭に生まれるだけで社会適応のハードルが下がり、難しい家庭に生まれると苦しい思いをしたうえに社会適応のハードルが上がるなんて。
けれども、我々はその与えられた場で生きていくしかないのだ。
また、縁起によって我々は生きており、努力してどうこうとかを遥かに越えた領域で「生かされている」のではないかと思った。
そして、そんな世界で生きている。
今の自分は、自分自身で作ってきたものではなくて、「周囲の環境によって作られたもの」ではないかと思った。
怒りやすい人は、そうやって生きてきたからそうしているだけで、そうでない環境で生きてきていたらそうなっていないのだろう。
不登校の生徒にしても、好きでそうなっている訳ではなくて、そうせざるを得ないからそうなっている(なので、教員が叱責したところで学校には来れないし、自分で頑張ろうと思っても登校できない場合も多い)。
と、考えると「自分」って今までの環境やら経験の積み重ねでできていて、自由意思があるような気がしているけど、実は今までの環境やら経験によって作られているような気がした。
ただ、だからこそ、努力していくことの価値を感じた。
「自分が経験してきたこと」が適切なことではなく、試行錯誤しながら「より良いこと」を探し、少しでもより良く生きようとすること。
自分ではどうしようもない大きな流れのなかで流れつつ、自らより良い方角を求めて泳いでいく。
流れに対して、ほんの僅かな動きにしかならないのかもしれないけれど。
幸せに生きたければ常に学び続け、試行錯誤しながら足掻いていくしかないのだろう。
「今までに自分が経験してきたことが正しい」と、思考停止しちゃった時点で目の前の問題には対応できなくなっていくのだろう。
教員としても、10年も経てば世の中相当に変化している。
その流れに取り残され、生徒の事が見えていない教員にはなりたくないな。