TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

「自分」とは何か

先日、スクールカウンセラーの方と話をさせてもらう機会があって、いろいろと教えてもらった。

対応の難しい生徒の事を話しているうちに、不登校の生徒の家庭環境の話になった。

ある程度教員をしている人なら経験していると思うが、不登校の生徒はだいたい家庭環境が悪い。

父親から暴力を振るわれている、母子家庭で母親は家に帰らずネグレクト、両親が離婚し再婚相手の連れ子と生活しているが明らかに再婚相手に邪険に扱われている……などなど、言い出したらキリがない。

で、カウンセラーの方に教えてもらったのが「二重の剥奪」という概念だった。

どういうことかというと、まず家庭で嫌な思いをする、そして家庭で「他人との健全な関わりかた」を学べないために学校や会社で適切な人間関係を結べない……ということだった。

人間は白紙の状態で生まれてくるので、人間関係の結びかたも学んでいくことの1つだ。

そして、その人間関係を学ぶ一番最初の場所が家庭だ。

人は生まれてくる家庭を選べない。

本人の能力や、努力でどうにかなることではない。

虐待する親も自身が虐待されて育ち、「それしか知らないからそうするしかない」場合が多い。

私は仏教的世界観が好きなので、これって正に「縁起」というやつだと思った。

不条理であり、不公平だ。

幸せな家庭に生まれるだけで社会適応のハードルが下がり、難しい家庭に生まれると苦しい思いをしたうえに社会適応のハードルが上がるなんて。

けれども、我々はその与えられた場で生きていくしかないのだ。

また、縁起によって我々は生きており、努力してどうこうとかを遥かに越えた領域で「生かされている」のではないかと思った。

そして、そんな世界で生きている。

今の自分は、自分自身で作ってきたものではなくて、「周囲の環境によって作られたもの」ではないかと思った。

怒りやすい人は、そうやって生きてきたからそうしているだけで、そうでない環境で生きてきていたらそうなっていないのだろう。

不登校の生徒にしても、好きでそうなっている訳ではなくて、そうせざるを得ないからそうなっている(なので、教員が叱責したところで学校には来れないし、自分で頑張ろうと思っても登校できない場合も多い)。

と、考えると「自分」って今までの環境やら経験の積み重ねでできていて、自由意思があるような気がしているけど、実は今までの環境やら経験によって作られているような気がした。




ただ、だからこそ、努力していくことの価値を感じた。

「自分が経験してきたこと」が適切なことではなく、試行錯誤しながら「より良いこと」を探し、少しでもより良く生きようとすること。

自分ではどうしようもない大きな流れのなかで流れつつ、自らより良い方角を求めて泳いでいく。

流れに対して、ほんの僅かな動きにしかならないのかもしれないけれど。

幸せに生きたければ常に学び続け、試行錯誤しながら足掻いていくしかないのだろう。

「今までに自分が経験してきたことが正しい」と、思考停止しちゃった時点で目の前の問題には対応できなくなっていくのだろう。

教員としても、10年も経てば世の中相当に変化している。

その流れに取り残され、生徒の事が見えていない教員にはなりたくないな。