TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

職員会議は忙しい

先日、職員会議でマウンティングを繰り返すクレーマーおじさんの事を書いたけど、前回の職員会議は興味深かった。

何があったかというと、クレーマーおじさんが劣勢にたたされていた。

おじさんがやらかしたのだ。

具体的にはここでは述べられないけど、前述の「事件」はおじさんがらみだ。

そんな状況のおじさんをを人々は見逃すわけがなかった。

おじさんの提案した議題が質問の集中砲火を浴び、見事に炎上。

提案の中身が穴だらけなのが火に油を注いでいたのだけど、普段は職員会議で質問なんかしないような方々も参戦しており、ワンサイドゲームだった。

普段は自分がマウンティングをして他人を攻撃していたから、弱味を見せたので仕返しされたのだ……

と、たまたまスクールカウンセラーの方と話す機会があり、その事を話すと面白い事を教えてもらえた。

「仕返しをされた」というのは私でもわかるけど、「何で仕返しをされるのか?」は今まで攻撃していたから。

では「なぜ他人を攻撃するのか?」というと、他人との人間関係を「こっちがやらないとやられる」という認識をしているから。

で、どうなるかというと今回みたいなことがあったら自分が攻撃されるので、ますます「攻撃しないと自分がやられる」という信念を強化していく。

「あぁ、やっぱりそうか」と。

これを繰り返し、攻撃し、攻撃される関係性は終わらない。むしろそんな信念を強化していくそうな。

なんだか残念な職場であるけど、いくら教員とはいえ、「ヒト」であり、闘争本能や防衛本能は押さえきれない。
誰が悪いわけでもない、人間ってこういうものだろうな。

まぁ、世の中こんな感じで回っているのだろう。

この争いを止めることができたのならば、世界平和が実現できそうな気がします。



個人的にはおじさんに攻撃されたこともあるし、攻撃されてしどろもどろになっているおじさんを興味深く観察しているのだけれども、他にも色々と興味深かった。

若い人でちょくちょくマウンティング的なことをしている人がいるけど、彼はこのチャンスを逃すことなくしっかりと仕留めていた。
仕事もできるし、彼は「決めるときには決める人間」のようでした。

もう一点面白かったのが、先代のクレーマーおじさんというか、最近は静かになった人がいるのだけれど、そのお方もついに今回は動きました。
最後のまとめで核心を突くように「ブスッ」と仕留めにかかった。
虎視眈々と狙っていたような質問だった。
ただ、クレーマーおじさんは核心の意味がわからず的外れな回答に終始していたので、「チクッ」とも届いてなかったようだけれど。
先代、不発!!
確実に仕留められると確信していたのか、先代は「この人言っても無駄だわ」と諦めず、仕留めにかかって同じことを繰り返しているのはなかなか滑稽だった。
先代、仕留めきれず!!



という攻防が会議室で月一で行われている本校。

ヒルが水面下で忙しなく足をばたつかせているように、本校も職員会議で大の大人がみっともないくらいにマウンティング合戦を行っているのだ。

ほんと職員会議は忙しい。

ほんと職員会議は楽しい。

大学無償化の目的

ふと、先日思い付きました。

大学無償化の目的。

「やる気のない学生に金を払うのは嫌だー」とか言っていましたが、そんなことではなさそうな気がしてきました。

某テレビ番組で「80まで現役社会」みたいなことをやっていましたが、そこではモデルケースとして「40~50あたりで一旦退職し新たなことを学んで働く」という北欧モデル?を説明していました。

それって、年金がなくなるってことですね。

なので、大学無償化は「若者の負担を減らす」とか「大学絡みの既得権層の保護」とかが目的ではなく、「年金なんてなくなるから、年取ってからもしっかり働いてね。セカンドキャリアのためには学費出すから!」ってことか。

と、考えるとありな気がします。

どうやって年金をなくすかは謎ですが、人も足りないことだし、新卒一括採用の慣例による歪みとか、人材の流動性の確保とか、同一労働同一賃金とか、その辺の問題も解決していきそうな気がします。

というか、結構現実的にセカンドキャリアを考えている(そういう社会になるとも思ってます)し、その際に学費がただになるのはいいかも。

そうなると、今みたいな入試では学生しかクリアできないので、アメリカ式の「入りやすく出にくい大学」にもなっていくのではなかろうか(ま、そうなってほしいという願望込みで)。

てゆーか、今の方式の入試を突破して自分が大学生になれるかどうか、なかなか厳しいっす。

勉強を教えているのに自分の学力が落ちているという、謎な現象。

うーむ、セカンドキャリアを考える前に受験対策を考えるべきなのか……

てなわけで、大学無償化に向けて私のなすべき事は受験勉強のようです。

事件は会議室で起こっているんじゃ(以下略)

はい。というわけで現場からです。

本校で「事件」が発生しました。

事件は現場で起こっているんだー!!

と、実感させられましたが、現場にいるからなのか問題の大きさがよくわかりません。

大きく発表されるのか、管理職が握り潰すのか、どういう対応をしていくのかよくわかりません。

さぁ、どうなることやら。

「自分」とは何か

先日、スクールカウンセラーの方と話をさせてもらう機会があって、いろいろと教えてもらった。

対応の難しい生徒の事を話しているうちに、不登校の生徒の家庭環境の話になった。

ある程度教員をしている人なら経験していると思うが、不登校の生徒はだいたい家庭環境が悪い。

父親から暴力を振るわれている、母子家庭で母親は家に帰らずネグレクト、両親が離婚し再婚相手の連れ子と生活しているが明らかに再婚相手に邪険に扱われている……などなど、言い出したらキリがない。

で、カウンセラーの方に教えてもらったのが「二重の剥奪」という概念だった。

どういうことかというと、まず家庭で嫌な思いをする、そして家庭で「他人との健全な関わりかた」を学べないために学校や会社で適切な人間関係を結べない……ということだった。

人間は白紙の状態で生まれてくるので、人間関係の結びかたも学んでいくことの1つだ。

そして、その人間関係を学ぶ一番最初の場所が家庭だ。

人は生まれてくる家庭を選べない。

本人の能力や、努力でどうにかなることではない。

虐待する親も自身が虐待されて育ち、「それしか知らないからそうするしかない」場合が多い。

私は仏教的世界観が好きなので、これって正に「縁起」というやつだと思った。

不条理であり、不公平だ。

幸せな家庭に生まれるだけで社会適応のハードルが下がり、難しい家庭に生まれると苦しい思いをしたうえに社会適応のハードルが上がるなんて。

けれども、我々はその与えられた場で生きていくしかないのだ。

また、縁起によって我々は生きており、努力してどうこうとかを遥かに越えた領域で「生かされている」のではないかと思った。

そして、そんな世界で生きている。

今の自分は、自分自身で作ってきたものではなくて、「周囲の環境によって作られたもの」ではないかと思った。

怒りやすい人は、そうやって生きてきたからそうしているだけで、そうでない環境で生きてきていたらそうなっていないのだろう。

不登校の生徒にしても、好きでそうなっている訳ではなくて、そうせざるを得ないからそうなっている(なので、教員が叱責したところで学校には来れないし、自分で頑張ろうと思っても登校できない場合も多い)。

と、考えると「自分」って今までの環境やら経験の積み重ねでできていて、自由意思があるような気がしているけど、実は今までの環境やら経験によって作られているような気がした。




ただ、だからこそ、努力していくことの価値を感じた。

「自分が経験してきたこと」が適切なことではなく、試行錯誤しながら「より良いこと」を探し、少しでもより良く生きようとすること。

自分ではどうしようもない大きな流れのなかで流れつつ、自らより良い方角を求めて泳いでいく。

流れに対して、ほんの僅かな動きにしかならないのかもしれないけれど。

幸せに生きたければ常に学び続け、試行錯誤しながら足掻いていくしかないのだろう。

「今までに自分が経験してきたことが正しい」と、思考停止しちゃった時点で目の前の問題には対応できなくなっていくのだろう。

教員としても、10年も経てば世の中相当に変化している。

その流れに取り残され、生徒の事が見えていない教員にはなりたくないな。

仕事の定義

最近、思うこと。

教員の仕事って線引きが難しい。

どこまでやるのか? が明確に決めることが出来ない。

「あんな授業俺にでもできる」と生徒に言われる授業でいいのか?

「あんな担任変えてほしい」と言われる担任でいいのか?

困っている生徒に一言、声をかけるのか?

遅刻の多い生徒なら、毎朝電話をかけるのか?

家でご飯を食べさせてくれない生徒に、何か食べさせてあげるのか?

部活動をもっとやりたいという生徒なら、土日を潰して付き合うのか?



……とか、言い出したらキリがない。

別に「誰にでもできる授業」だったとしても、処分される訳ではない。

クラスの生徒から「あんな担任変えてほしい」と言われても、処分される訳ではない。

けれども私はそうなるのは嫌だな。

生徒にいい顔をしたいのかもしれないし、同僚の評価が気になるのかもしれないし、もっと崇高な余世ため人のために働きたいのかもしれないですが、よくわかりません。

が、「必要最低限」は出来ないので、問題となってくるのが「どこまでやるか?」だ。

言い換えると、「自分が仕事とすることの定義付け」をする必要があるように感じる。

やった方がいいことなんて、無限にある。

けれども、そんなことをやっていたら潰れることが目に見えている。

時間も身体も有限なのだから。

なので定義付けをし、その定義内で出来ることをやっていくことが必要な気がする。

「自分がやることはここまで!」って決めた方が楽に働けそうだ。

いちいちやらない理由を考えていると、非常にきつい。



……と考えていると、私なりの定義は……

と、ちょっと書いたけどわからなくなって、消してしまった。

うーむ、よくわからん。

けど、学校外でやることは、いくら生徒に必要不可欠であっても仕事ではない気がする。

茹でガエル

教員の労働時間がやたら長くてブラックだという、そんなことがネットニュースでもよく見かけるようになった。

そんな流れもあり、今の職場でも勤務時間の調査をやらされてる。

で、100時間オーバーが何人かいるようだ。
(自分自身は50時間程度でしたが)

部活がらみです。

年がら年中100時間とかいってそうな方々でした。

死ぬよね⁉

てゆーか、これ絶対に過労死になるよね⁉

とかいう話を一般企業の人にしたら、「えっ!?、50時間もあるの!?」と言われました。

えっ!?

50時間「も」なのか……

周囲に100時間オーバーしている人が当たり前のようにいると、「50時間なんて少ない方だ」と思っていた。

100時間オーバーしている同僚が「昔もっと大変な職場があったから大丈夫ですよ」と言っていたが、私も120時間オーバーだったこともあって、「これくらいなら楽なもんでしょう」とか思っている部分もあった。

これ、正に茹でガエルの状態だと思った。

「今までがそうだった」から、なんの疑問も持たずに続けていく。

某一流企業のように、才色兼備で高学歴で生徒や保護者に好かれている人間が死ななきゃ気付かんのかもしれない。

私は気付かせてもらった気がするけど、多くの教員は異常性に気付かず、気付いても見て見ぬふりをして茹で上がっていくのだろう。



この異常な長時間労働の解決には、もっと誰かが死ぬしかない。

ニュースに大々的に取り上げてもらうしかない。

そんな、志半ばで教職を去った人々の屍の上で働かせてもらってるんだろう。



あと、100時間オーバーしているけど「大丈夫ですよー」といっている同僚は、非常に余裕がない。

よくイライラしているし、残業や休日出勤(部活ですが)が重なってくると生徒に対して怒鳴ることが増える。

自分では大丈夫と思ってるかもしれんけど、隣で見てたら、結構八つ当たりしてるぞー。

という教員に余裕のない職場は、生徒の問題の芽を早めに摘み取れないから、いじめにしろなんにしろ問題が表面化するほど大きくなっちゃうんだろうな。

先生に余裕がないと生徒にもいいことないですよ。

センセーも人間です

引き続き、池田町の件について。

担任と副担任の度重なる厳しい叱責が原因らしいですが、何ていうかそこを叩く考え方は建設的でないなーと思う。

もちろん、叱責して生徒の行動が変わらないのに繰り返しているのは教員として能力が低い。

けど、残念ながら「できない教員」は絶対にいなくならない。

どの会社にも「できない社員」がいるように、教員の世界にもいますよ。

そもそも教員免許自体が「勉強ができればとれる」ものなので、生徒対応能力の保証をするものではない。

また、今の同僚にも生徒対応能力の極めて低い人がいるが、別に処分されるわけでもなし、注意をする人もいないし(そんな人が聞くわけない)。

教員免許の更新制度ができて、そういう残念な教員を弾きたかったと思われるが、実際は誰でも更新できるし。

採用試験ではそんなこと分からんし。





働き蟻を調べると必ず3割が働いていないらしい。

でも、その3割だけを集めて巣を作ると、7割が働き出すらしい。

人間でも一緒でしょう。

教員集団として必ず「できない教員」が生まれる。

お役所からくるお達しは「もっとしっかりやれ」的なもので、できない3割を減らそうとしてるけど、無理でしょう。

生徒を執拗に叱責して追い込む教員もいるし、相談しても全く相手にしてもらえない教員もいるし……と、どうしようもないことは認めることが必要だと思う。

不祥事がある度にお達しがくるけど、それで不祥事がなくなってないでしょ!?

それを認めて……というか、諦めて「そんな教員もいるからそれに対応するのが仕事の人」を作るのが再発防止なんじゃないかな。




いつからあるのか、「教員は聖職」というイメージで考えている人がまだまだ多いと思う。

教員だって人間だから、腹が立つこともあるし、依怙贔屓することもあるし、弱い立場の生徒をいじめることもあるし、生徒の不登校の原因となることもある。

聖職だからそんなことはあるまじき。

あるまじき事は改善されるべきだから、改善されるはずだ、みたいな。

聖職だから問題があっても改善される、と思われてるように感じる。

今回のような執拗に叱責する教員にしても、変えるとか、(ほぼ)無理だから。

教員本人は悪気あってやってる訳じゃないから。

これが正しいと思ってやってるから。

聖職だから学校の問題は全部教員が対応できる、とかないから。

むしろ問題を作る場合もありますから。

というわけで、学校の事を教員が全部やることはもう、やめましょう。

センセーだって人間ですから、できないこともある。

できないことはできる人にやってもらうしかない。