TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

理不尽のない世の中

今年の年度始めは「書類で教育してるんじゃない、教育は現場でやっているんだ病」の発症をどうにか逃れることができた模様。

そんな日々ですが、最近「責任問題」について考えさせられることが多くなった。

生徒に何かあったときの責任について。

社会的にも教員や学校、教育委員会の責任を追求する動きが強くなっている気がする。

それを受けて、教育委員会から学校や教員に対して事細かく「しっかりと対応しなさい」と指示が来る。

半分は責任を追求されたときの責任逃れで、残りの半分は問題解決を目指しているような感じだけど、そんなに簡単に解決するなら問題じゃないぞ……とよく思う。

ていうか、教員は授業やるのが本分なので、生徒の家庭のことやら健康のことやらに「責任」というやつを問われても、基本的に「専門機関へ行ってください」しかないんですけど。



という、「責任問題」を考えているとこれは別に教員だけではなくて、世の中の流れとして「誰かの責任問題にする」とか、「責任者を見つける」という動きが強くなっているからのように思う。

何でそうなっているのか?

それは「理不尽なことをなくしたい」という事ではないかと思う。

例えば、何の罪もない子供が運転者のミスによる交通事故で亡くなった。

そんな「理不尽なことを」が起こった場合に、「運転者の責任」、「ガードレールを設置していない管理者の責任」、場合によっては「事故の起こりやすい道を通学路にした学校の責任」といった形で責任の所在を明確化する動きが強くなっている気がする。

もちろん、それによって改善策が生まれてきて理不尽な事故が減ることを目指しているのだろうし、実際に理不尽な事故は減るのだと思う。

けれど、そうやって理不尽なことを減らそうとしているうちに、「理不尽なことはあってはならない」という前提に立って物事を考える人が増えてきているような気がする。

そうなると、どうなるのか。

人間はこの世に誕生することに関しても、少なくとも3つの理不尽がある。
生まれてくる「親を選べない」「場所や時代を選べない」「性別や障害や病気の有無など、身体を選べない」。
そんな、そもそも「理不尽なことがあって当たり前の世の中」という前提を忘れるので、現実との齟齬が生まれる。

その齟齬を埋めるために、理不尽なことがあると誰かのせいにしないと気がすまない人が増えてくるのだろう。

もちろん、昔の学校は理不尽なことが今より多く、教員に気に入られなかった生徒は殴られるなんてこともあっただろう。
それが減ったことは「よいこと」なのだろうけれども、「理不尽なことがあってはならない」という前提にたつ人が増えると、齟齬を埋めるために歪みがあちこちで出てくるだろう(齟齬を埋めようとして誰かを攻撃する人は増えている気がする)。

もちろん、私も自分自身が理不尽な事に直面したら全力でどうにかしようとするのだけれど、理不尽なことを理不尽なままで受け入れられる力が必要とされてくるのではないかと思う。

昔は世の中の理不尽なことが今よりも多くて、理不尽な事に対する耐性が今より強かったのではないかと思う。

それは社会的に全体として余裕があったからなのか、合理的な考えが少なかったからなのかわからないけど。

という感じで、理不尽な事をなくそうとした結果、全体としての苦しみは減っていないということが起きているような気がする。

理不尽な事を理不尽なままで受け入れるという考えは、仏教的(他の宗教でもありそう)な世界観のような気もするので、今までの宗教を捨てて、「理不尽な事があってはならない教」に改宗する人が増えているとも言えそうな気がする。



と、長々と考えてみたけれど私は悟りとはほど遠い凡人なので、明日からも「理不尽」な政府や教育制度や管理職や生徒や保護者や……という娑婆でカッコ悪く足掻き続けるだけですけどねー。