部活は苦しい
先日は部活が楽しい理由を考えてみた。
しかし、楽しいことのみを考えるのは片手落ちである。
そこで部活が苦しい理由を考えてみた。
まずはなんと言っても、給料が発生しないことだろう。
ボランティアですから。
ていうか、教員は残業代という概念ないですから。
責任だけ負わされて、問題は起きるわ、休みはなくなるわ、クレームは来るわ、苦しい理由しか見当たらない。
付け加えると、生徒は成長するのに自分は成長しない現実と向き合わなければならない、指導力のなさを痛感させられる、生徒と一緒に爽やかな汗をかいてしまう、などもある。
これを楽しいという人間はよっぽど幸せな人間か、よっぽど不幸な人間か、よっぽど部活が楽しい人間か、人間ではないかのどれかだろう。
次に、生徒の悩み、苦しむ姿をみることである。
苦しみなくして、成長なし。
部活では成長のための苦しみを生徒とともにするのである。
時にあまりにも苦しくて、その気持ちを生徒にぶつけてしまう。断っておくが、あくまでもこれは「指導の一環」であり、決して八つ当たりではない。むしゃくしゃしてしまっただけである。もちろん、その後は後悔の念に苛まれる。もちろん、その後は後悔によりむしゃくしゃしてくるので、生徒に八つ当たりして……と、無限ループである。
そして、保護者のことも忘れてはならない。
日々の部活動指導に不満を持っている保護者も多い。
顧問のやる気がない、顧問がやる気ありすぎてついていけない、顧問の指導力がない、顧問の指導力がありすぎて逆らえない、我が子が顧問にいじめられている、我が子が顧問をいじめている、などなどあげればきりがない。
こちらとしては保護者と会うときは平身低頭、へこへこしているが、身長が190センチメートルもある保護者には決して上から目線で接したことはない。
また、私が生徒の役に立っていると勘違いしている方がいたりする。そんな方は「ほんといつもお世話になっています」などと言われる。そういうときは「いえいえ、お役にたてなくてすみません」と言っているのだが、「そんなことないですよ」などと言われたりする。謙遜していると思われることが多いが、理解していただけないこの状況は苦しいものである。本当に役に立っていないことが理解されると、さらにに苦しいものである。
以上の理由により部活は苦しい。
あぁ、なんて苦しいんだ。