TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

専門家

最近、いろいろな「専門家」の方と一緒に仕事をする機会が増えた。

我々教員はその道の専門家ではない。

なので専門家と協力することが必要となる。



……なんですが、一口に専門家と言っても、いろいろな専門家がいて、いろいろな立場だったりする。

「我々は学校の中の事を知らないので、学校の事を理解することが大事」

と言ってくれる人もいるが、

「教員は全然解っていない。やっていることがおかしい」

と言い、教員や学校に対する否定的な感じがビシビシ伝わってくる人もいる。

言い方も、かなーり上から目線。

そんな態度で面と向かって言われたときはさすがにカチンときました。




その個人の性格も関係していそうですが、なかなか難しい。

「教員は専門家の力をもっと借りるべきだ」

みたいなことを言う人がいますが、

「それは専門家に言ってくれ」

と言いたくなった。

生徒のためを思って協力するんでしょ!?

あんた何しにここに来たの!?

教員の判断がおかしいと思うかもしれんけど、こっちだって一生懸命考えてます。

否定するんじゃなくて、協力しましょうや。



人と人が協力するってそんなに難しいことなのか!?

閉鎖的な理由

近年、「開かれた学校」みたいなことが結構言われるけど、自分自身が閉鎖的だなーと思うことがあった。

それは私が一応の責任者としてやっている仕事なんですが、教員じゃない人にお手伝い(?)してもらっている。

そのお手伝いをしてもらっている人との話。

正直、私はその人が信用できません。

言葉の端々にひっかかる何かがある。

それがなんなのかは言語化できてませんが。

で、その人に生徒の事を任せてしまってもいいかもしれないけど、問題が起こったときに尻拭いするのは私。

頼むから、役に立たなくていいから、こっちの仕事をふやさないでおくれ。

……という意識が先行してあまり仕事を任せたくない。

そのお方にやりたい放題やっていただいても、いいかもしれません。

上手くいかなかったとき、その人は仕事をやめるかもしれない。

けど、こっちは辞めれんのだよ。

あなたが起こした問題の後片付けをやらにゃならんのですよ。


みたいなことを考えていると、「たいしてなにもしてもらわない」が正解のように思う。


何かをしようと挑戦的するのではない。

失敗の後始末を減らそうという、消極的スタンス。

超保守的。


あー、どうすりゃ生徒にプラスになるのか?

お天道様

この週末、いろいろと失敗した。

お陰で詫びの電話をしたり、生徒の信用を失った(かもしれない)りと、今日は忙しかった。

先日にふざけた記事を書きすぎた罰があたったものだと思われます。

調子に乗るとちゃんと痛い目をみる様になっている気がする。

お天道様は見ているんだなぁ。

部活は苦しい

先日は部活が楽しい理由を考えてみた。

しかし、楽しいことのみを考えるのは片手落ちである。

そこで部活が苦しい理由を考えてみた。



まずはなんと言っても、給料が発生しないことだろう。

ボランティアですから。

ていうか、教員は残業代という概念ないですから。

責任だけ負わされて、問題は起きるわ、休みはなくなるわ、クレームは来るわ、苦しい理由しか見当たらない。

付け加えると、生徒は成長するのに自分は成長しない現実と向き合わなければならない、指導力のなさを痛感させられる、生徒と一緒に爽やかな汗をかいてしまう、などもある。

これを楽しいという人間はよっぽど幸せな人間か、よっぽど不幸な人間か、よっぽど部活が楽しい人間か、人間ではないかのどれかだろう。




次に、生徒の悩み、苦しむ姿をみることである。

苦しみなくして、成長なし。

部活では成長のための苦しみを生徒とともにするのである。

時にあまりにも苦しくて、その気持ちを生徒にぶつけてしまう。断っておくが、あくまでもこれは「指導の一環」であり、決して八つ当たりではない。むしゃくしゃしてしまっただけである。もちろん、その後は後悔の念に苛まれる。もちろん、その後は後悔によりむしゃくしゃしてくるので、生徒に八つ当たりして……と、無限ループである。




そして、保護者のことも忘れてはならない。

日々の部活動指導に不満を持っている保護者も多い。

顧問のやる気がない、顧問がやる気ありすぎてついていけない、顧問の指導力がない、顧問の指導力がありすぎて逆らえない、我が子が顧問にいじめられている、我が子が顧問をいじめている、などなどあげればきりがない。

こちらとしては保護者と会うときは平身低頭、へこへこしているが、身長が190センチメートルもある保護者には決して上から目線で接したことはない。

また、私が生徒の役に立っていると勘違いしている方がいたりする。そんな方は「ほんといつもお世話になっています」などと言われる。そういうときは「いえいえ、お役にたてなくてすみません」と言っているのだが、「そんなことないですよ」などと言われたりする。謙遜していると思われることが多いが、理解していただけないこの状況は苦しいものである。本当に役に立っていないことが理解されると、さらにに苦しいものである。



以上の理由により部活は苦しい。

あぁ、なんて苦しいんだ。

部活は楽しい

最近、議員のセンセー方も動きがあったりと、何かと話題にもなっている部活。

今日は部活が楽しい理由を考えてみた。



まず、生徒の成長の場となっている。

これは議論の余地もないだろう。

後輩ができ、先輩として世話をしている様子などをみると、「成長したもんだなぁ」と教員冥利に尽きる経験をさせてもらえるのである。

また、ねちっこく後輩をいじめる先輩になったりもするが、いじめられる立場にいたことから考えると成長したのかもしれない。成長していないかもしれない。



次に、公の下僕としての教員の役割を思い出させてくれることである。

ボランティアといいつつ、限りなく業務命令に近い状況で月に100時間近い残業もさせてもらえる。

自分の健康、生活、家庭まで省みず滅私奉公させてくれるのは部活くらいしかない。

腹が減った、嫁が家出した、頭が禿げてきた、借金が増えている……など、ついつい自分の事を優先したくなるが、部活はそうはさせてくれないのである。

滅私の心であり、これぞ公務員の鑑である。

教員として、自身の健康などを考えるようではまだまだである。

身を削り、心を削り、行き着く先は悟りの境地。

このまま悟りに至り、仏になることも可能かもしれない。

あるいは、いっそのこと仏になった方が幸せかも知れない。

仏になってしまえばこっちのもんである。

「教科指導や生徒指導に熱心に取り組み、生徒に好かれた先生」として、皆さんに惜しんでもらえるのだ。

嫌いな先生の葬儀に参加する生徒はいないので、こちらにとっては好都合である。

さも生徒全員に好かれる素晴らしい先生であったと、思ってもらうことも可能である。

いっそのこと先に仏になってから日々の授業を行いたいものである。

なお、この方法は若い人間がやるほど効果は大きくなると思われる。




三つ目に忘れてはならないのは生徒のメリットである。

なにより、自身が成長していくことによる達成感を得られることである。

体を鍛え、心を鍛え、人としても成長する場である。

達成感を感じ、それにより自信を持ち、さらに自信を持ったことによりさらに達成していくというよい循環が生まれる。

クラスで居場所のない生徒が部活に居場所を見つけるということは決して珍しいことではない。

クラスで居場所のない生徒が部活でも居場所がなくて、学校に来なくなることも珍しいことではない。

部内恋愛なども青春の一ページを飾る一大イベントである。

部内いじめに遭うことも一大イベントである。

また、顧問に嫌われて嫌がらせを受ける、顧問に気に入られて周囲に嫌がらせを受ける、嫌いな顧問に嫌がらせをして退職に追い込む、、顧問に部費をちょろまかしたのがバレてお説教される、顧問が部費をちょろまかしたのがバレていなくなる、など貴重な人生の体験を積める可能性がある。




ここまで教員、生徒のメリットのみをあげたが、それでは片手落ちである。

最後に保護者に対するメリットもあげてみたい。

それはクレームの種に事欠かないことである。

ストレスが溜まり、どこかにぶつけたい時。

そんなときは部活である。

まずは活動時間をつつけばよい。

活動時間が短ければ「あの先生はやる気がない」といえばよく、逆に時間が長ければ「あの先生は効率が悪い」と言えば良い。

「🌑🌑学校の🌑🌑部はこんなことをやっているのに、うちは無理なんですか!?」と、他を引き合いに出すのも一興である。

他にも、顧問の半数が自身の経験のない部活の顧問であるので、「素人に子どもの面倒を見させるのか」と言ってもよい。

但し、クレームをつける際は気を付けるべき点があり、それは「子どもを愛するあまり、行きすぎた心配をする保護者」を演じることである。

そうすれば、自分も不満のはけ口を確保でき、しかもある程度は共感しながら聞いてもらえる。

注意すべきはしつこくなりすぎないことである。

あまりしつこいと意図せずして、校長やら教頭と面談させられる可能性がある。

そうなると学校に出向くのも手間なので、電話をするなら学校ではなくお悩み電話相談の方がいいのかもしれない。



以上の理由により、部活は楽しい。

楽しい部活っていいなぁ。

流行り廃り

教育界も、その他いろいろの世界と同じで流行り廃りがある。

「教育問題」と呼ばれることも大分変化してきた。

校内暴力、いじめ、無気力、「キレる生徒」、不登校モンスターペアレント……

と、いろんなことが学校現場で問題となってきたが、時代とともに?変化してきた。

で、今なにが現場で大変なことなのか?

そんな話になると必ず上がるのが、発達障害

これに困っていない学校は無いと言っても過言ではない。

10年もすれば社会が変わり、生徒も変わる。

さて、10年後の「教育問題」は一体何だろう。



補足ですが、発達障害と呼ばれる症状が問題ではなくて、学校の側が発達障害の生徒に対応できないことが問題だと思ってます。

というか、広義の発達障害も含めると全体の5%以上いると思うし、全然珍しくもなんともない症状です。

そして、発達障害であっても学校や社会に適応してやっていっている人も非常に多い。


学校の設計、教員の人数やら一斉授業、成績の付け方など、発達障害の生徒が適応しづらい現状が問題でしょう。

てか、人手が全然足りません。

発達障害の生徒がいなくても相当にブラックな職場なのに、そこに発達障害で難しい生徒となると対応しきれん。

殺るか、殺られるか

と、まあ物騒なタイトルですが。

最近職場でよく考えること。

「どうやって生き延びるか?」

降りかかってきた仕事を如何にこなして、新たに余分に降りかかってくる仕事を如何にかわすか。

自分自身を護るために、闘わなければならない。

安請け合いしてると、仕事がどんどん降ってくるし、押し付けたい人も多いですから。

理論立てて闘う姿を頭の中でシミュレーションしている。

まぁ、人事の最終決定権を持っている管理職は「学校」を考えているので、個人のことなんて知ったこっちゃない。

「先生方一人一人の健康が一番大事です」とは口では言うけど、個人が潰れても代わりはいますからね。

てなわけで、ホントに日々ギリギリの命懸けで働いている気がする。

まさに「殺るか、殺られるか」の世界な感じ。




と思うと、職場で周囲の人間やら生徒やらの悪口ばっかりいっている人や、自分の責任逃れしか考えていない人は、この荒野のような職場で懸命に生き延びようとしてるんだなあ。



ほんと、何て言うか「暖かさ」がないというか、冷たい職場だなぁ。

ま、我々は単なる使い捨ての駒で、代わりに教員になりたいという人はいくらでもいるんで、別に教員が一人二人死のうが教育委員会のセンセー方には関係ないんでしょうけど、自分は大事なんで自分を護るために闘います。