TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

コンプライアンス遵守

「2つ良いことさてないものよ」
私が好きな河合隼雄氏の言葉だ。

近年、「コンプライアンスの遵守」的なことが社会で厳しく言われるようになり、それは一般企業だけでなく学校現場へも顔を出すようになった。

体罰の禁止、生徒との私的なやり取りの禁止、個人情報の管理の徹底…なとなど。

もちろん「良いこと(悪いことの回避)」なんですが、それねも合わせて上意下達の傾向がかなり強くなってきた。
文科省教育委員会、校長…の意向と異なることは禁止されるという感覚が強くなってきた。

もちろん、「コンプライアンス違反などの悪いこと」が減っているのだろうけど、「良いこと」も減っている。
「困っている生徒一人に教員がルールの外側で何かをしてあげる」などは危険すぎて相当数減ったと思う。

定時制の数学の先生が「回答は間違っているが非常によく考えられているから100点!」と採点し、それに大きな影響を受けた生徒が後々会社を設立し、大きく成功して「あの採点のおかげで今がある」とおっしゃっている文章を読んだことがある。
私はこれぞ教職の醍醐味、成功例だと思うのだけれど、こんなことはもう「あってはならない事」になっているのだ。
何せ「余計なことはしないで下さい」と管理職から言われるのだから。

という訳で、杓子定規に誰に対しても「同じことをして正しいことを言う」金太郎飴化の圧力が高まっている現場で御座います。



この「上意下達が徹底された組織」というのは近代的な効率化を図るためには必須なので社会の流れもそうなっているのだろうけど、これは日本的な「中空構造」と非常に相性が悪い。

新しく赴任した管理職は「何もわからない者ですが…」と自己紹介をし、「今までのやり方に合わせていく方式」で現場に任せて回っていく。
なんなら現場の邪魔をしないためにも「本当に無能な人」が管理職だった方が上手く回ったりもする。「現場の仕事内容を知らない人」が管理職になることもざらにある。

現場は今までの慣性で動いていきやすいので、この構造は上意が変更された場合に回らないことが起こりやすい。

また、「現場が何をやっているか?」がよくわかっていない場合は上意が降りてきた時に「実現できないボトルネックになっているもの」がわからない。けれども「やれ」という指示は出さないといけないが、現場では解決できず…という事が起こる。

という訳で上意下達が厳しい状況には日本式の中空構造は非常に弱い。


…だろうなーと、ICTとか発達障害をよくわかっていない管理職を見ていて思う。
ま、学校は上意下達があまり根付いていない文化があったし、生徒対応を考えると難しい組織なので、官公庁とか一般企業とはかなり事情が違うのだろう。

働き方改革関係では法律やら文科省の方針も常にチェックしていないといけないし、「常に『よく』学び続ける人」でないと管理職は厳しい世の中になったのだな。



中空構造では中が空っぽで明確な支持や命令なしになんとなしに色んな事が決まっていくが、実はこれは「部分最適」を実現するには良い方法ではないかと思う。
もちろん、現場の人間が正しい判断(体罰をしないとか、違法行為をしないとか)を判断できることが前提だけど。



まだ頭の中が上手く整理しきれてないけど、コンプライアンス遵守を進めると部分最適で救われていた生徒は救われなくなる、というお話。

乗るか反るか

いろいろと話を煮詰めて、確実にことを進めていきたいのだけれど流石にやってみないとわからないこともある。

ただいま、そのど真ん中。

「俺が目指したのはひりつくようなギャンブルだ!」とか全然思ってないですけど、ヒリヒリせざるを得ないっぽい。

乗るか反るか、さてどうなる!?


仕事をしてりゃそんな時もありますからね…

理不尽のない世の中

今年の年度始めは「書類で教育してるんじゃない、教育は現場でやっているんだ病」の発症をどうにか逃れることができた模様。

そんな日々ですが、最近「責任問題」について考えさせられることが多くなった。

生徒に何かあったときの責任について。

社会的にも教員や学校、教育委員会の責任を追求する動きが強くなっている気がする。

それを受けて、教育委員会から学校や教員に対して事細かく「しっかりと対応しなさい」と指示が来る。

半分は責任を追求されたときの責任逃れで、残りの半分は問題解決を目指しているような感じだけど、そんなに簡単に解決するなら問題じゃないぞ……とよく思う。

ていうか、教員は授業やるのが本分なので、生徒の家庭のことやら健康のことやらに「責任」というやつを問われても、基本的に「専門機関へ行ってください」しかないんですけど。



という、「責任問題」を考えているとこれは別に教員だけではなくて、世の中の流れとして「誰かの責任問題にする」とか、「責任者を見つける」という動きが強くなっているからのように思う。

何でそうなっているのか?

それは「理不尽なことをなくしたい」という事ではないかと思う。

例えば、何の罪もない子供が運転者のミスによる交通事故で亡くなった。

そんな「理不尽なことを」が起こった場合に、「運転者の責任」、「ガードレールを設置していない管理者の責任」、場合によっては「事故の起こりやすい道を通学路にした学校の責任」といった形で責任の所在を明確化する動きが強くなっている気がする。

もちろん、それによって改善策が生まれてきて理不尽な事故が減ることを目指しているのだろうし、実際に理不尽な事故は減るのだと思う。

けれど、そうやって理不尽なことを減らそうとしているうちに、「理不尽なことはあってはならない」という前提に立って物事を考える人が増えてきているような気がする。

そうなると、どうなるのか。

人間はこの世に誕生することに関しても、少なくとも3つの理不尽がある。
生まれてくる「親を選べない」「場所や時代を選べない」「性別や障害や病気の有無など、身体を選べない」。
そんな、そもそも「理不尽なことがあって当たり前の世の中」という前提を忘れるので、現実との齟齬が生まれる。

その齟齬を埋めるために、理不尽なことがあると誰かのせいにしないと気がすまない人が増えてくるのだろう。

もちろん、昔の学校は理不尽なことが今より多く、教員に気に入られなかった生徒は殴られるなんてこともあっただろう。
それが減ったことは「よいこと」なのだろうけれども、「理不尽なことがあってはならない」という前提にたつ人が増えると、齟齬を埋めるために歪みがあちこちで出てくるだろう(齟齬を埋めようとして誰かを攻撃する人は増えている気がする)。

もちろん、私も自分自身が理不尽な事に直面したら全力でどうにかしようとするのだけれど、理不尽なことを理不尽なままで受け入れられる力が必要とされてくるのではないかと思う。

昔は世の中の理不尽なことが今よりも多くて、理不尽な事に対する耐性が今より強かったのではないかと思う。

それは社会的に全体として余裕があったからなのか、合理的な考えが少なかったからなのかわからないけど。

という感じで、理不尽な事をなくそうとした結果、全体としての苦しみは減っていないということが起きているような気がする。

理不尽な事を理不尽なままで受け入れるという考えは、仏教的(他の宗教でもありそう)な世界観のような気もするので、今までの宗教を捨てて、「理不尽な事があってはならない教」に改宗する人が増えているとも言えそうな気がする。



と、長々と考えてみたけれど私は悟りとはほど遠い凡人なので、明日からも「理不尽」な政府や教育制度や管理職や生徒や保護者や……という娑婆でカッコ悪く足掻き続けるだけですけどねー。

外から見ると

最近、学校関連でいろいろとニュースが賑わっている。

生徒に嵌められてぶん殴った先生やら、虐待親父の恫喝に押されて生徒のアンケートを渡しちゃった教育委員会の人とか……

まあ、事の是非は置いといて、「警察入れてガツンと対処しろ」的な意見も多いようだ。



その、警察やら弁護士やらに入ってもらってガツンとやることに関して。

こっちとしてもガツンとやりたいときも多い。

けど、それは「外の人の意見」なんだよな。

第3者だから軽く言えることなんだよなーと、思う。

どういうことかというと、最近お世話になった理不尽クレーマーさんな保護者の場合、警察を入れて保護者をガツンとやってもらった結果、生徒が不登校になる可能性もある。

それがネタでいじめられる場合もある。

それらを学校が完全に防ぐことはできないし、生徒の事を考えると良い影響はあまり想像できない。

……という思考で教員は大して反撃もせずにクレーマーのストレスの捌け口になってる。

客商売なら変なやつはお断りできるかも知れないけど、学校は転校させる権限なんてないし、実際は公立高校も退学処分なんてできない。

生徒や保護者との関係は卒業するまで続いていくのだ。

関係が続くからこそ、生徒のために無理をしてでも丸く納めようとするのだ。

そんな配慮は意味のないことかも知れないけど、外部からは見えないだろうなーと思う。

みんなが教育を受けてきているので、「みんなが教育評論家」な世の中ですが、現場にいないと解らないこともあるんだよなー。

もちろん、そんなこと解るわけがない人も多いだろうし、学校現場にNOを言う人も必要ですけど。



ま、最近は教員が訴えられることも増えてきてる気がするので、対決するならどんどんやりますけどね。

燃え盛る

ただいま本校、炎上中であります。

保護者からのクレームのお電話が毎日かかってきております。

しかも、複数のご家庭から。



どうやら学校は保護者のストレスの捌け口としての役割も担わされているようです。

お電話の内容がなかなかに理不尽。

まぁ、理不尽でない内容だったり、論理的な会話ができる方だった場合は2、3回話せばだいたい終わっていきますからね……

こちらも理不尽についていけておりません。

「太陽が眩しすぎたからだ」とでも言えばいいんでしょうか、「なんでサングラスがないんだ!」、サングラスがあったらあったで「黒い色は教育に不適切だ!」という感じで、どっち転んでもアウトなご主張です。

保護者の方も家庭やら仕事やら子育てやらで大変なんだろうなーと、「人生うまくいっていないんだろうなー」と思うしかないですねー。



今に始まったことではないですが学校にここまでクレームがあるのは「悪いやつは攻撃してよい」という、社会の風潮の現れのような気がします。

そして、「学校」や「教員」が悪者になっている人々が増えたのでしょう。

しっかりと自己主張する世の中になってきたのだけれど、単にストレスの捌け口としての主張をする人も増えているのだろう。

ということなので、主張をする人に対してはこちらも毅然と主張をしていくべきなんでしょうけど、なんせ私を含めてほとんどの教員が今までにそんな練習をしていない。

なので平謝りをしちゃう人がいたりするので、余計に燃えちゃってる。

まさに「時代の変化についていけていない」というやつですな。



という勢いよく燃え盛るまっただ中の本校ですが、火の粉が自分に降りかかってこないことを祈るばかり。

火の粉っていうより、爆薬ですけど。

ま、自分に降りかかってきたら振り払うし、なんなら消防に来てもらいますけどね。

ドラマはここにある

自身の身に起こった理不尽な、過酷な現実。

一度はその現実に打ちのめされ、見失い、道を踏み誤る。

しかし、それでも支えてくれた人がいたこと。

そんな人に支えられながら、前を向いて困難を乗り越え成長した笑顔。

そして、乗り越えると見えてくる周囲の人々への感謝。

深い想いと、感謝の言葉。



……というような生徒の現実。

事実は小説より奇なりという言葉があるけど、現実はドラマ並みにドラマチックだ。

こんなにできたドラマは初めて遭遇したし、信じられないくらいに王道の、本当に良くできたストーリーだった。

たまには感動のストーリーを。


また、明日から頑張る力をもらった。

失敗から学ぶということ

失敗から学ぶということは大事だと思うし、いろんな人が「成功より失敗の方が大事」と言っているので、失敗を大事にしたい。

……と、思っているのだけれど、実際に失敗したらやっぱ痛いなー。

「空気の読めない厚かましい人間」をやらかしてきました。

落ち着いて考えると、NGですが、回りが見えずやらかしてきた。

次回はほどほどにしよう。

思い出したくないし、考えると「やらかしたー」って叫びたいけど、「なんでそうなったか」も考えておきたい。

「失敗から学ぶ」ってなかなか口当たりのいい言葉だけど、実際は相当に苦しいことなんだと改めて確認。