TkMdの日記

忙しさに流されない日々のために。某教員のブログ。

燃え盛る

ただいま本校、炎上中であります。

保護者からのクレームのお電話が毎日かかってきております。

しかも、複数のご家庭から。



どうやら学校は保護者のストレスの捌け口としての役割も担わされているようです。

お電話の内容がなかなかに理不尽。

まぁ、理不尽でない内容だったり、論理的な会話ができる方だった場合は2、3回話せばだいたい終わっていきますからね……

こちらも理不尽についていけておりません。

「太陽が眩しすぎたからだ」とでも言えばいいんでしょうか、「なんでサングラスがないんだ!」、サングラスがあったらあったで「黒い色は教育に不適切だ!」という感じで、どっち転んでもアウトなご主張です。

保護者の方も家庭やら仕事やら子育てやらで大変なんだろうなーと、「人生うまくいっていないんだろうなー」と思うしかないですねー。



今に始まったことではないですが学校にここまでクレームがあるのは「悪いやつは攻撃してよい」という、社会の風潮の現れのような気がします。

そして、「学校」や「教員」が悪者になっている人々が増えたのでしょう。

しっかりと自己主張する世の中になってきたのだけれど、単にストレスの捌け口としての主張をする人も増えているのだろう。

ということなので、主張をする人に対してはこちらも毅然と主張をしていくべきなんでしょうけど、なんせ私を含めてほとんどの教員が今までにそんな練習をしていない。

なので平謝りをしちゃう人がいたりするので、余計に燃えちゃってる。

まさに「時代の変化についていけていない」というやつですな。



という勢いよく燃え盛るまっただ中の本校ですが、火の粉が自分に降りかかってこないことを祈るばかり。

火の粉っていうより、爆薬ですけど。

ま、自分に降りかかってきたら振り払うし、なんなら消防に来てもらいますけどね。

ドラマはここにある

自身の身に起こった理不尽な、過酷な現実。

一度はその現実に打ちのめされ、見失い、道を踏み誤る。

しかし、それでも支えてくれた人がいたこと。

そんな人に支えられながら、前を向いて困難を乗り越え成長した笑顔。

そして、乗り越えると見えてくる周囲の人々への感謝。

深い想いと、感謝の言葉。



……というような生徒の現実。

事実は小説より奇なりという言葉があるけど、現実はドラマ並みにドラマチックだ。

こんなにできたドラマは初めて遭遇したし、信じられないくらいに王道の、本当に良くできたストーリーだった。

たまには感動のストーリーを。


また、明日から頑張る力をもらった。

失敗から学ぶということ

失敗から学ぶということは大事だと思うし、いろんな人が「成功より失敗の方が大事」と言っているので、失敗を大事にしたい。

……と、思っているのだけれど、実際に失敗したらやっぱ痛いなー。

「空気の読めない厚かましい人間」をやらかしてきました。

落ち着いて考えると、NGですが、回りが見えずやらかしてきた。

次回はほどほどにしよう。

思い出したくないし、考えると「やらかしたー」って叫びたいけど、「なんでそうなったか」も考えておきたい。

「失敗から学ぶ」ってなかなか口当たりのいい言葉だけど、実際は相当に苦しいことなんだと改めて確認。

研修の成果

夏休み。

普段の忙しさから解放されて、充電期間。

ついでにいろんな研修を受けてきました。

そんな、研修では様々な講師のかたがいた。

ユーモアがあり引き付けるような話をする人、固い感じの話しだけど内容で引き付ける人、配布資料と講演内容が一致しない人、喋っている内容が自慢話な人、文科省の答申をコピペした資料でそれを読み上げるだけの人……


と、色々だったのだけれどいくつか気づかせてもらった。

まずは、講演(我々の場合は授業)は「内容」と「プレゼン」ということ。

この両方がハイレベルなときに「良い講演」となるのだろう。

内容がよくてもプレゼンが下手な場合、聞く側のモチベーションやら、理解力やら、そんなハードルがあり「内容のよさ」が伝わりにくい。

プレゼンが上手くて、受講者を楽しませても中身がなければ後に残るものはない。

ただ、内容に関しては「よく知っている人」が聞く場合にシビアに求められ、プレゼンに関しては「聞く側にモチベーションがない」場合にシビアに求められる。


あと、資料の使い方。

資料にないことをしゃべる方がいて「資料通りやってくれ」と思ったけど、資料を棒読みされても「講義を聞く必要ないじゃん」と思った。

基本、資料に沿った内容でしゃべり、資料にないことは補足説明、が大事だと思った。

スキルとして、ちょっと脱線して資料と関係ないことを喋るのは重要だと思うけど、脱線してるのか本線なのかわからなくなるような話はダメ。


てな感じで「講義を仕事」として働いていると、自分が受ける際には厳しめに見てしまうけど、こうやって考える機会になったこと自体が講義を受けた成果だと思う。

「で、何が言いたいの?」とか「ほんと、時間の無駄!」と何度か思ったけど(笑)

まぁ、そんななかでも内容として深く考えさせられた講演もあって、ちょっとは成長したかな?と思える夏休みとなった。

コペルニクス的

最近気がついたこと。

私は「教員は生徒対応と授業でなんぼ」と思ってて、いろんな書類作成やら校内の雑務やらは付属品だと思っている。

「茶番センサーを切り、茶番に全力投球しよう」的なことが最近読んだ本で書いてあった。

そして、そんな茶番に全力投球できる人間が組織で必要とされるのだと。

だから、理不尽なルールになれてる体育会系が重宝されるそうな。

読みながら共感していたんだけれど、私は付属品と思ってる仕事は「茶番だ」と思ってるということに気がついた。

報告書類とか全然適当でいいと思ってる。

右詰めで半角スペースを入れるとか入れないとか、ほんとどうでもいいと思ってる。

けれども、そうでない人々もいて、そんな人たちはある意味で「茶番に全力投球出来る人」かもしれない。

けれども、書類に全力投球出来る人は生徒対応に全力投球出来ない人が多い気がする。

これって人間のキャパシティーの問題で、何かに全力投球すると他が疎かになるのは当然のことかな?

生徒対応があんまり出来ない人が、自身の得意の分野に力をいれ書類仕事に注力するようになるのか?

その辺のことはよくわからないけど、あんだけ書類嫌だ嫌だと言っていたけど、私も茶番スイッチをオンにしたら書類仕事にもうちょい前向きに取り組めそうな気がする。

と、なると生徒対応が二の次になり、頭の固い教員にもなれそうな気がする。

それまで茶番だと思っていたことが実は本質で、本質だと思っていたことが実は茶番だったという、コペルニクス的転換が今起こっているのか!?


「組織で働くこと」の本質は「どれだけ茶番と思われようとも組織で必要とされることを実行する」ということなんだろうな。


まぁ、そもそも私のような凡人の人生なんてそもそも茶番だと思っているので、どんな茶番劇に出演するかは自由だし、茶番劇に参加しないのも自由だ。

孤独な人

先日の放課後17時頃……ゴンゴンゴンと職員室のドアを叩く音。
ドアを開けると、そこには三角に目がつり上がって今にも殴りかかりそうな形相のおじさんがいた。

「進路指導している教員を出せ」「俺はここのOBだ。進学先がめちゃくちゃになってええんか?」……と。

ここであとは管理職にお任せw

どうやら本校の生徒の下校マナーがなっていなかったらしいので、お怒りのようだ。

……と、思っていたら生徒指導部長が一言。

「あのひと一年前にも来たねー。言ってることもおんなしやったし」



そんな私はクレーマーおじさんから孤独感を感じた。

もし、口を聞いてもらえる相手がいたのなら、わざわざ学校まで出ていって鬱憤を晴らす必要はないだろう。

あの程度の愚痴を言う相手がいない……深い孤独の深淵を垣間見たような気がした。


他にも不登校の生徒で友人関係が上手い生徒はあまりいない。
だいたいがクラスでういてしまい、ひとりぼっちの時間が長くなる。そしてさらに学校に来づらくなる……


孤独は人々の人生に負の影響を与えることが多そうだ。

人は本能的に孤独を恐れているのだろうか。
孤独によって引き起こされたと思われる凶悪犯罪も起こっている。


ひょっとしたら学校で最も学ばせないといけないことは「人間関係の作り方」かもしれない。
孤独な生き方をしなくてもよいように。

一線越えた

越えてはならない境界線。

一人の人として、そして一教員として、越えてはならない境界線。

そんな境界線を越えてしまいました。

ついつい、うっかりなどと言い訳をしても、二度と取り返しのつかない「向こう側」へ。

悔やんでも、悔やみきれない、愚かな過ち……






はいきたー(゚∀゚)━!

5月の残業時間が過労死ライン越えましたー。

最近は過労死ラインは回避する優等生でしたが、5月は部活の絡みもありで越えちゃいました。

疲労が蓄積されて、仕事中ボーッとしてしまう、やる気がわかない、朝起きれない……などなど、ちょっと危ない感じ。

そんなこんなで風邪も引いてしまったし。

一線越えた代償は大きかった。

もう、若くてピチピチでもないんだから、身体がついていかんようです。